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ナポレオン・ボナパルトとマルタ

ASWOT

2014-07-27
マルタ騎士団
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1815年、ナポレオン・ボナパルトがベルギーのワーテルローで敗戦を喫し、ナポレオン戦争に終止符を打つことになった「ワーテルローの戦い」。
このナポレオン最後の戦いから200年目の来年2015年、ベルギーでワーテルローの戦いを記念したイベントが開催されるようです。
前回のブログでお話したマークさん達も、ベルギーで行われるこのイベントに参加予定なのだそうです。

ナポレオンには様々な逸話が残されていて、どこまでが事実なのかは不明ですが、フランス革命後の急進的な時代を先導する、時代が生んだリーダーであったと思います。
ナポレオンが言ったとされる「Impossible, n'est pas français.」、「余の辞書に不可能という文字はない」というか、「不可能という言葉はフランス語にはない」が象徴するように、革命後のフランスには変な(?)勢いがあったのでしょうか。
フランスと戦いを繰り広げた対戦国にも、フランスから持ち込まれる概念が広まり、新しい社会の動きを生み出していったようにも思えます。
ナポレオン戦争の間に200万人の人々が亡くなった一方、ナポレオンが携わったとされるフランス民法典(ナポレオン法典)は、日本の旧民法をはじめ、各国の民法の基礎となるような現代的なもので、基本には、革命後のフランスの自由・平等・博愛の理念があるのだそうです。(歴史を知らな過ぎるので、色々勉強しなければいけないです。反省。)

そんなナポレオン率いるフランス軍は。。。
1798年、当時覇権争いを繰り広げていたイギリスの重要な植民地であったインドとの英印交易を絶つため→
交易の経由地であったエジプトを奪取しようとし→
地中海の要所でエジプトへの経由地であったマルタを占拠しました。

当時のマルタはマルタ騎士団が統治していましたが、船の補給目的と偽って戦略的に入港したフランス軍に、無抵抗のまま島を占拠されてしまいました。(ヨーロッパ各国の貴族の家から集められた騎士団の中には、フランス出身の騎士も少なからずいたこともあり)団員の足並みが乱れる事態も要因となり、ナポレオンがマルタに足を踏み入れてから島を去る6日の間に、マルタ騎士団は島から追放されてしまいました。

ナポレオンが実際マルタに留まったのは、6日間だったと言われていますが、この6日の間にナポレオンは、マルタの国政と12の地方自治体、金融行政の改革をし、あらゆる領主権や特権、奴隷制度を廃止し、家族法の枠組みを作り、初等教育、中等教育を提供する公教育システムをつくったのだとか。
本当でしょうか?本当だとしたら、やはりナポレオンはただ者ではありませんね。
(因みに奴隷とはトルコ人のことのようで、この頃はトルコ人が奴隷として連れてこられたり、マルタ人やゴゾ人が奴隷として連れていかれたりといったことが起こっていたようです。)

しかし当時のマルタは、教会を中心として一般大衆と、貴族、騎士団の関係がそれなりにうまく機能している社会だったようで、急進的にマルタの改革をしようとするフランスに対する社会の不満がつのっていきました。
占拠するフランス軍との軋轢から、マルタの人々は反乱を起こし、イギリスに援助を要請します。そして1800年にフランスはマルタから撤退し、以降1964年のマルタ独立までの164年間、マルタはイギリスの植民地になったのです。

そんなマルタの1798年から1800年の歴史を、50分のショーで見せてくれるのが、前回のブログ「ナポレオン統治時代を描く Alarme」でご紹介した、マルタの人気イベント「アラーム」です。

今回も長くなって、申し訳ありません。

写真提供:マークさん

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